今回の小説はこちらです。
『スプートニクの恋人』村上春樹
1.『スプートニクの恋人』について
1.村上春樹の第9作目の長編小説
『スプートニクの恋人』は1999年発売の、村上春樹の第9作目の長編小説です。
長編小説と言っても、ページ数は310ページほどで個人的には丁度いいぐらいだと思います。
2.タイトルにある”スプートニク”とは?
この本のタイトルにもなっている”スプートニク”という言葉ですが、これは一体どういう意味なんでしょう。
調べたところ、”スプートニク”とはロシア語で「付随するもの」という意味です。
「スプートニク1号」をご存じでしょうか?
ロシアが作った世界初の人工衛星の名前なんですが、「付随するもの」という意味から転じて「衛星」という意味もあるそうです。
ただし、作中では「旅の連れ」という風に表現されていました。
そのため、「スプートニクの恋人」=「旅の連れの恋人」という風に言い換えることができそうです。
2.『スプートニクの恋人』のあらすじ
主人公(ぼく)の2つ年下の友達であり、ぼくが恋心を抱いているすみれは、22歳の春に生まれて初めて恋に落ちた。
恋に落ちた相手の名前は”ミュウ”、韓国人で、すみれより17歳年上の女性。
すみれがミュウに恋愛感情を抱いていたのに対して、ミュウもすみれに対して個人的な好感を抱き、すみれはミュウが経営する会社の手伝いをすることになる。
仕事でヨーロッパを訪れた時、とあることでギリシャの小さな島に滞在することになった2人。
ギリシャの島の美しいビーチを満喫し、静かで満ち足りた生活を送っていた彼女たちだったが、ある日すみれがミュウの前から消えてしまう。
すみれから主人公の存在を聞かされていたミュウは国際電話でぼくにギリシャに来てすみれを探すのを手伝ってもらえないかと頼み、それに応じてギリシャに向かう主人公。
そこで主人公はすみれが残した2つの文章を発見することになる。
その文章に書かれていたこととは一体・・・。
3.『スプートニクの恋人』の考察:すみれは「夢の世界」に行った
(個人的な考察です)
結論から言うと、すみれは”夢の世界”に行ったと考えられます。
なぜすみれは夢の世界に行ったのか、理由は2つあると思います。
1つ目は、「夢の世界には衝突がなく、血が流されることもないから」。
2つ目は、「ミュウに身体的に拒絶されたことに精神的に耐えられなかったから」。
すみれが残した文書1の中にすみれ自身についていろいろと書かれていますが、順番に整理していこうと思います。
1.夢の世界には衝突がなく、血が流されることもない
まず最初に、僕たちが「知っていること」と「知らないこと」はわかちがたく存在しているとすみれは考えています。
作中の言葉を借りると、「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」(P.202 L.3)という事です。
多くの人はその2つの間についたてを立てて生きていますが、すみれはそんなことはせずに「知っていること」と「知らないこと」を仲良く同居させるべく努力しています。
その方法が「思考する」ということです。
しかし、すみれはミュウと出会ってから思考することが重荷になってしまい、思考することをやめてしまいます。
ではどうすればいいのかというと、”夢を見る”ことです。
夢の中ではものを見分ける必要がなく、衝突もなく、血が流されることもありません。
2.ミュウに身体的に拒絶されたことに精神的に耐えられなかった
そして、ミュウに身体的に拒絶されたことが引き金になって夢の世界に足を踏み入れたという事になると思います。
撃たれたら血が流れる現実より血が流れることのない夢の世界を選んだということなのでしょうか。
また、主人公のぼくとミュウは警察の力を借りて島の至る所を捜索しますが、すみれ発見の手掛かりとなるものを発見することができていません。
そして、本作の一番最後にすみれは何事もなかったように日本に戻ってきた描写がされています。
その時のすみれの発言から、すみれは夢の世界で比喩的に”犬の喉を切って”自分自身に生命の付与を行ったと考えられます。
4.『スプートニクの恋人』の感想:物事を絶対的に理解することなんてできないんじゃないか?
「スプートニクの恋人」はそのストーリーだけを見ても非常に面白い作品ですが、文学的要素ももちろん含まれていていろいろ考えさせられました。
例えば、考察の部分でも引用した次の文について。
理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。
『スプートニクの恋人』村上春樹 p.202 l.3
物事というのはいろんな側面を持っていると思うんですが、自分が知っていると思っていることも、言うなればその物事の1つの側面について言及しているだけなんじゃないかなと思いました。
物事っていうのは簡単に言ったらめっちゃ変化するんです。
あらゆる物事は、環境や捉え方によって変幻自在に形を変えます。
僕たちが理解していると思っていることも、それはあくまで便宜的に理解しているだけであって、絶対的に理解することなんてできていないのかもしれません。