みなさんこんにちは。
今回は、古代中国の思想家の一人である「孟子」について書いていきたいと思います。
この孟子ですが、学校の授業で聞いたことがあるという人もいるのではないでしょうか。
僕は高校の時に倫理の授業でこの孟子を習ったのを覚えていますね。
孟子と言えば、なんといっても「性善説」。
そこで、今回は性善説も含めて孟子が当時の戦乱の渦中にあった中国でどのような活動をしていたのかわかりやすく解説していこうと思います。
1.孔子の教えを実現するために諸国を旅する
性善説(後ほど説明します)を唱えたことで有名な孟子ですが、実は彼は孔子の後継者です。
孔子(紀元前552~紀元前479年)とは、儒教を大成した人物で、あの「論語」でもかなり有名ですよね。
その孔子の教えとは、簡単に言えば忠恕の心をもって争いのない世の中を作るという事。
忠は「まごころ」を、恕は「思いやり」を表しています。
まごころと思いやりを大切にして争いのない平和な世の中を作ることが孔子の目指した理想なんですが、残念ながら彼はその目標を果たせずに亡くなってしまいます。
そこで!
そんな孔子の理想の世界を現実にしようと追求したのが孟子です。
当時の中国はいくつものの国に分かれていたのですが、彼は各国の王に「仁義」について説いて回ります。
仁とは、「広く人や物を愛すること」。
義とは、「物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと」です。
孔子の理想の世界を実現するために各国を旅した孟子ですが、そのあまりにも現実離れした思想を聞き入れた王はおらず、孔子の理想の世界をついに実現することはできませんでした。
2.「性善説」-人は誰しも善の心を持っている-
孟子が唱えた「性善説」とは、「人間は誰しも生まれながら善の心を持っている」という考え方です。
孟子はこのように説明しています。
例えば、目の前に井戸があって幼児がその井戸の中に落ちそうになっているとします。
その光景を目撃すれば、誰しもその幼児を助けようと思いませんか?
その時に、その幼児を助けたことで何か利益を得ようなんて考えるはずはなく、ただ幼児の命を助けたいという心からそのような行動をとると思います。
これが「性善説」です。
孟子は当時の中国大陸の各国の王に仁義を説いて回ったことは先に述べました。
その各国の王さまたちは戦争によって他国を支配しようとしているわけで、その王さまたちに「仁義がどうの正義がどうのこうの」と説いて回ったのも、いかに残虐な者であっても善の心を持っていると孟子は信じていたからできたことなんです。
各国の王さまたちの善の心に訴えかけていたんですね。
3.さいごに -時代性が大事だという事-
「仁義」を重視して孔子が思い描いた理想の世の中を作ろうとした孟子ですが、結局はその考えを聞き入れた王がおらず、実現することはありませんでした。
ではなぜ孟子の考えが聞き入れられなかったのか。
それは、当時の時代に合わなかったからです。
中国大陸がいくつもの国に分かれて戦争をしているときに、その一つの国の王に「戦争をやめて仁義を大切にして国を治めましょう」と言ったところでそんなこと不可能ですよね?
戦争をやめたとたん他国に攻め込まれて国が滅ぶだけです。
このことから分かるのは、「時代性」の大切さです。
みなさん、「ちょんまげ」って知っていますか?
武士なんかがよくしている髪を後頭部でくくってまとめているあの髪型ですが、あれは室町時代や江戸時代の武士のファッションの1つでした。
当時は武士のアイデンティティとして普及したちょんまげですが、令和のこの時代にちょんまげをしている人を街でみかけたらちょっと不思議というか、言い方は悪いですけどちょっと面白いですよね。
なんでそう感じるのかと言えば、ちょんまげが令和の時代に合っていないからです。
時代性とはこういうことで、たとえ自分が画期的で魅力的だと思うものでもそれが人々に受け入れられるものかをじっくり吟味することが大切だと思います。
【参考文献】